その「嫌い」、一回弾いてみましたか?

その「嫌い」、一回弾いてみましたか? 先生という仕事

夜、なんとなくスマホを眺めていたら、ある番組の切り抜き動画が流れてきました。

僧侶でメイクアップアーティストの西村宏堂さんが、「日曜日の初耳学」(MBS制作・TBS系)の「インタビュアー林修」に出たときの一場面です。ピアニストのお母さんから言われた言葉を紹介していました。

要約すると、こんな話です。

モーツァルトが嫌いなら、作曲の仕方を勉強して、作品を弾いてみなさい。そのうえで「ここの作曲法が気に入らないから嫌い」と言うなら、道理が通る。なんとなく嫌いと言うのは意味のない批判で、差別や偏見と同じ。その人の生き様やストーリーを知らずに「嫌い」と言うのと似ている。

…ぐさっときました。

「嫌い」は禁止されていない

この話、「嫌いと言うな」とは言っていないんですよね。

嫌いでいい。ただ、弾いてから言おう。知ってから言おう。それだけです。

弾いてみた人の「嫌い」には中身があります。「ここが合わない」と言われたら、こちらも考えられる。でも、弾く前の「嫌い」は、相手のことを何も語っていません。語っているのは、自分の気分だけ。

教室で、職員室で

教室では毎日のように「きらい」が飛び交います。「国語きらい」「この話つまらない」「あいつ、なんか嫌」。

まぁ、言いたくなる気持ちは分かります。

でも、「どこが?」と聞いて理由が返ってきたら、それはもう立派な読みです。人に向いた「嫌」なら、「その子のこと、どれくらい知ってる?」と聞いてみたい。

そして正直、一番耳が痛いのは自分のほうでした。引き継ぎで聞いた一言で、会う前から子どもを決めつけていないか。新しい取り組みに「なんか嫌だな」と、読む前から首を振っていないか。

先生だって、弾く前に嫌っていることが案外あるんです。

「弾いてみる」って、教室では何だろう

モーツァルトを弾いてみる。これを教室に置きかえると、何になるでしょうか。

国語なら、「この話つまらない」と言った子と、一場面だけ一緒に読み直してみること。算数なら、「わり算きらい」と言った子と、一問だけ、ゆっくり一緒に解いてみること。体育なら、「なわとびきらい」と言った子と、一回だけ跳んでみること。

大きなことではありません。全部好きにさせようとしなくていい。一回だけ、中に入ってみる。それが「弾いてみる」なんだと思います。

で、弾いてみたあとに出てくる言葉が、案外おもしろいんです。「やっぱりきらい。でも、ここはちょっとおもしろかった」。この「でも」が出てきたら、もう十分じゃないでしょうか。きらいの中身が、少しだけ見えたということなので。

「どこが?」と聞くときに気をつけたいこと

「どこがきらいなの?」と聞くのは、思ったより難しい問いです。聞き方によっては、責められているように聞こえてしまう。

なので、聞くときは、答えが出なくてもいい、というつもりで聞くようにしたいと思っています。「どこがきらいか、分かったら教えてね」くらいの軽さで。子どもも、自分の「きらい」がどこから来ているのか、すぐには言えないものです。大人だってそうですよね。

それから、出てきた理由を否定しないこと。「主人公がうじうじしてるからきらい」。それは、立派な読みです。「そう読んだんだね」と受け止めて、「ほかの人はどう読んだかな」と広げていけば、それがそのまま授業になります。

人に向いた「嫌」は、少していねいに

人に向いた「嫌」は、話が少しちがいます。

「あいつ、なんか嫌」には、相手がいます。言われた子が聞いていたら、傷つきます。だから、こういうときは、その場ではっきり止めたいと思っています。そのうえで、あとから二人きりで、「その子のこと、どれくらい知ってる?」と聞いてみる。

知らないから嫌、ということは、案外多い気がします。話したことがない。一緒に何かをしたことがない。だとしたら、先生にできるのは、二人が一緒に何かをする場面を、さりげなくつくることかもしれません。班を組む。係を一緒にする。席を近くにする。無理に仲良くさせる必要はありません。ただ、「知る」きっかけを置いておくだけです。

先生の「なんとなく嫌」

職員室の「なんとなく嫌」も、けっこうあります。

新しいICTのツール。新しい評価のやり方。研修で紹介された実践。「なんか合わなそう」と思って、使ってみる前に引き出しにしまってしまう。…正直、私にもあります。

もちろん、全部を試す時間はありません。でも、一つだけ、一回だけ、弾いてみる。それで「やっぱり合わない」と分かったら、それは中身のある「嫌い」です。胸を張って断れます。

「好き」も、弾いてから

逆のことも言えるかもしれません。「なんとなく好き」も、弾いてみると変わることがあります。

好きだと思っていた作家の、読んだことのない作品を読んでみる。好きだと思っていた実践を、自分のクラスでやってみる。すると、「ここは好きだけど、ここは合わない」が見えてきます。好きの中身もまた、弾いてみて初めて分かるものなのだと思います。

子どもの「好き」にも、同じように「どこが?」と聞いてみたい。「この本好き」「どこが好き?」「最後のところ」「最後のどこ?」。きらいのときと同じように、好きの理由が言葉になると、それも立派な読みになります。

「弾いてみる」には時間がかかる

もう一つ、思ったことがあります。弾いてみるには、時間がかかるということです。

作曲の仕方を勉強して、作品を弾いてみる。それは、一日や二日でできることではありません。だからこそ、「なんとなく嫌い」で済ませてしまうほうが楽なんですよね。

教室でも同じです。子どもに「一回やってみよう」と言うなら、そのための時間を先生が用意しなくてはいけない。急かされた中で弾いてみても、たぶん、きらいは深まるだけです。ゆっくり一回、弾いてみられる時間。それを教室にどれだけ用意できるかも、先生の仕事なのかもしれません。

学んでみたら、の先にあるもの

西村さんのお母さんの言葉で、もう一つ印象に残ったのは、「その人の生き様やストーリーを知らずに」というところでした。

作品の向こうには、作った人がいます。モーツァルトの曲の向こうには、モーツァルトという人がいる。教材の向こうには、その文章を書いた作者や筆者がいる。そして、教室の「あいつ」の向こうには、その子の家での時間や、これまでの毎日がある。

「嫌い」と言う前に、少しだけ、その向こう側を想像してみる。弾いてみるというのは、たぶん、その想像のための入り口なんだと思います。

そう考えると、「嫌い」と言うこと自体は、悪いことではないのかもしれません。大事なのは、そのあとに「なんでだろう」と少しだけ立ち止まれるかどうか。立ち止まって、一回だけ弾いてみる。その小さな一歩を、子どもにも、自分にも、すすめてみたいと思っています。

ちょっと考えてみてほしいこと

ということで、今日は答えを書くのではなく、問いを置いて終わります。よかったら、ご自分の中で考えてみてください。コメントで教えてもらえたら、とてもうれしいです。

一つめ。あなたが今「なんとなく嫌い」と思っているものは何ですか? それは、弾いてみたうえでの「嫌い」でしょうか。

二つめ。子どもが「この話、つまらない」と言ったとき、あなたは何と返していますか?

三つめ。学んでみたら、案外好きになったもの。あなたにはありますか?

私は…今夜はとりあえず、ずっと苦手だと思っていた曲を一曲、弾き直してみようかと思っています。

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